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「蓮」7号 『夕陽』に寄せて― 三神恵爾2016/06/15


詩歌探究社「蓮」7号が完成しました

目次です




前回の記事に宮澤賢治の講座のことを書きましたが、そのときの講師でもある三神恵爾さんが早速「蓮」をお読みくださり、私の詩作品に寄せた随想をfacebookに書かれていました。ここに転載させていただきます。

                             写真/三神恵爾

内なる色彩
ーー詩歌探求社「蓮」17号所収、糸田ともよの「夕陽」に寄せて
突然雨の日に、紙切れ1枚と掃除機片手に訪ねてきた何やら押し売り風の男が勝手に上がり込み、散々使い道を披露したあげく、何の実入りもなく引き上げてゆくまでをコミカルに描いたレイモンド・カーヴァーの短編小説『収集』を読むと、あきれ顔の家主におかまいなく、男は2度、意外な詩人の名前を口にする。はじめはウイリアム・オーデン。彼が初めて中国を訪れたとき、最後までスリッパを履いていたという話題をさりげなく挟む。次はリルケだ。彼は自動車が嫌いで列車で城から城へと移動していたと。この押し売り、ただもではないなと思わせるところがうまい。
けれど、どうせそれは、高名な詩人にとってのいわばどうでもいいエピソードにすぎない。それが誰であれ、時々そういう無駄口を人前で挟みながら、人生は雨の日の気怠さのように、ほとんど投げやりに過ぎてゆくのか。そこに、レイモンド・カーヴァーの得意とする小説のテーマや文体や教養のすべてを見てとれるが、詩人はその程度の話のネタしか残さない無用の長物なのか。
そんなことはあるまい。もし、この世に詩人という人間がいなければ、私はとうてい生きる楽しみを見いだせないかもしれない。詩人は曲がり角を曲がるときでさえ、そこにどんな景色が隠れ潜んでいるか、たえず身構えている。身構えているのは心の目であり、指であり、爪先だ。そのようにして、詩人は今日もフラフラと道にでてゆく。ボードレールや萩原朔太郎であれば、雑踏空間に身を溶かし込み、姿を消して全身を眼差しに変える。
ところが、それが宮沢賢治なら、草むらに分け入るだけで、彼自身が風と一体となり、目は瞬時に「翼」となり、「橋」となり、「幽界の微粒子」に染まる。おそらく、詩人・糸田ともよもそうなのだろう。ここに添えられた写真は作者自身が写したものだ。私の宮沢賢治講座の帰り道で、ピンホールカメラを構えてとらえたらしき、まさしく講座の話題にも上がった、この世とあの世の境目に立った男の「幽界の微粒子」となりつつある後ろ姿を映している。
この「夕陽」という詩は、そういった世界に溶け入らんとするもう一つの鋭敏な目を通して書き留められたものだ。詩人はただ、雑踏の片隅で、コーヒーカップの底に沈んだ己れの虚ろな目と戯れるだけではなく、いわば一瞬に命を賭けている、そういう人間なのだ。今しも夕陽の彼方に消え入らんとする男の背中に手を伸ばし、その、未だ見ぬ何ものかをグイッと引き寄せ、詩人は「筆圧の強い雨」の中を引き上げてくる。しかし、「対岸」はいつでも「血」の「凱歌」のように、滴る夕陽で真っ赤に染まっているのだ。そこはもう、この世でもなくあの世でもなく、ただただ詩人の頭脳の迷路に他ならない。
そこへ、恐れずに分け入ってゆくのが、詩人のすべき唯一の仕事だ。それはけっして退屈でもなければ、投げやりな荒野でもない。糸田ともよの書くものは、そうやってまさしくピンホールカメラのように、小さく覗いた一点の通路をこちら側に手繰り寄せ、この世の光を未だ見ぬ内面の色彩に変える。そこが、実にうまい。そして、糸田ともよらしいところだ。



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毎号、じっくり読んでくださり嬉しい限りです。

「蓮」7号は6号にひきつづき、髙橋淑子書歌集『うつし世をともに在りたるもろもろへ』の書評など、読みどころです。


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