「蓮」8号『ひきしおのうた』に寄せて― 三神恵爾 ― 2016/10/19
指を切らない陶片
―― 糸田ともよの最新短歌の世界 三神恵爾
ウルグアイ生まれのフランスの詩人ジュール・シュペルヴィエルに、あまりにも美しい悲しみを湛えた短篇小説、『沖の小娘』がある。
...「この、水に浮かんだ道路が、どうして出来たものか? どんな水夫たちが、どんな建築師の手を借りて、大西洋遥か沖合の海面、六千米もある深海の上に、これを造ったものか?」(堀口大學訳)
とはじまるこの物語は、一人の水夫の嘆きから生まれた、水に浮かぶ街と、そこでたった一人で暮らす少女の孤独を描いている。海に浮かぶ街は、船が通ると音もなく海底深く沈んで消える。それでも少女は船影を見つけるとつい、「助けて!」と叫んでしまうのだ。
糸田ともよの久々に手にした短歌「ひきしおのうた」を目にして、ふとそんな光景を思い浮かべた。そう、今回送ってもらった『蓮』最新号の作品たちは、まさに波間に浮かんで漂いくる放浪者、永遠にくり返す放浪者としての、言葉の泡が結晶したものだ。その泡つぶは時として古代ギリシャの竪琴のように、ひらがなを積み上げた白い言葉の塔としての、そこからさまざまな色彩をおびた調べが打ちふるえて歌を誘いだす、幾本かの弦のように今はまだ静かに心を整えている。
その弦を少しだけ風に晒すだけで、まるで『沖の小娘』の少女の目に映じた光景、すなわち想いに沈む記憶の風景のように鮮やかな歌を立ち上げる。そこはやはり、海だ。細くしなやかな指のように波に磨きあげられた流木があてもなく彷徨い、海面を突き刺して立つ澪標は、海底深く眠る神話の巨人の止めを刺し、その動きを封じてそれが小骨のように栓をしている。どれを読でも、このような遠い時間の彼方を見つめやる、実に哀切なまなざしが調べを立てていて、読者の目をさらに遠くへと誘う。
藻屑、貝、泡、鳥影、そして「指を切らない陶片」を経めぐり、まなざしをやおら「常世」へと伸ばす。この海のむこうはただ果てしなく「常世」すなわち、見知らぬ異国へとつらなり、たとえば想像力を通して無益な戦場としての、廃墟と瓦礫に白く煙る血塗られた都市を浮かび上がらせる。アレッポ、イスタンブール、モスル…。さらにはテロの標的にされたパリやベルギー、ドイツなどの街々。けれど、われわれは作者とともにただ佇み、「指を切らない陶片」を拾いあげ、すなわち安全地帯に立って遠くを見つめるしかないのだろうか。そういう問いがここには隠れている。『沖の小娘』の、叶わぬ叫び声のように。
三神さん、ありがとうございました。
「蓮」には新たにオールカラー12頁の「別冊HASU」ができました。
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