「蓮」7号 『夕陽』に寄せて― 片上雅仁 ― 2016/06/28
夕 陽 糸田ともよ
息は炎風
血は凱歌
彼の心は薬莢のマトリョーシカ
対岸の街は容易く
筆圧の強い雨に塗り込められて
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腕は橋
まなざしは翼
彼のことばは幽界の微粒子
対岸の街は反転し
撓んだ橋が今日も夕陽を滴らせて
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この詩、各行ごとに、「つぎにはこんなことばがくるのだろうな」という読者の期待をことごとく裏切り続けてくれるので、最初は面食らう。「シュール・レアリズムだよな」などと勝手に思う。
しかしながら、よくよく読み返せば、まず、とてもよく構成された作品であることにまず気づく。二つの連がきれいに同じ構造になっている。ローマン・ヤコブソンならば、「平行性がある」と評するであろう。
息は炎風/血は凱歌
まで読んで、一体何の話だ? と戸惑う。つぎの
彼の心は薬莢のマトリョーシカ
で、「彼」の話であるらしいと、一応の推測ができたつもりになる。それにしても、息が炎熱で、血が凱歌で、心が薬莢のマトリョーシカであるような「彼」とは、どんな「彼」なのだろう。この世ならぬ存在かもしれない、というような想像をめぐらせる。
対岸の街に雨が降る。それも、筆圧強く塗り込められたような雨。対岸の街は、灰色に煙ってよく見えない。「対岸」も、この世ならぬものを思わせる。「彼岸」という仏教用語を思い出しておくのも悪くない。
街に雨が降るというと、僕はどうしても、ポール・ヴェルレーヌの詩『私の心に雨が降る』を思い出してしまう。第一連が、
Il pleure dans mon coeur
Comme il pleut sur la ville;
Quelle est cette langueur
Qui pénètre mon coeur?
著名な文学者たちのどの翻訳も気に入らないので、僕自身が気に入るような翻訳を勝手につけよう。
私の心に雨が降る
街に雨が降るように
私の心を突き通す
このやるせなさは何なのか
『夕陽』のなかでも、作者の心の中にも、いや、作者の心の中にこそ、雨が降っているのかもしれない。
さて、『夕陽』第二連。最初の二行。
腕は橋
まなざしは翼
ここでまた、フランスの詩を思い出す。ギヨーム・アポリネール『ミラボー橋』。これは堀口大學先生の翻訳がいいのでそのままいただこう。そう長くもないから全文を記そう。
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
われらの恋が流れる
わたしは思い出す
悩みのあとには楽しみが来ると
日も暮れよ、鐘も鳴れ
月日は流れ、わたしは残る
手に手をつなぎ顔と顔を向け合はう
かうしていると
われ等の腕の橋の下を
疲れたまなざしの無窮の時が流れる
日も暮れよ、鐘も鳴れ
月日は流れ、わたしは残る
流れる水のように恋もまた死んでいく
恋もまた死んでゆく
生命ばかりが長く
希望ばかりが大きい
日も暮れよ、鐘も鳴れ
月日は流れ、わたしは残る
日が去り、月がゆき
過ぎた時も
昔の恋も 二度とまた帰って来ない
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる
日も暮れよ、鐘も鳴れ
月日は流れ、わたしは残る
そう、腕は橋をつくる。橋の下には水が流れている。それが時間の経過、月日の流れを思わせる。顔と顔を向け合い、二人が見つめ合うとき、時間は止まる。時間の無い世界に入る。だから「翼」。
人が永遠の生命というものを持つならば、人はきっと「時間」という観念を持たない。現実の人間は永遠の生命など持たないから、すなわち、いずれ死がやってくる存在だから、いつまでも無時間世界にいるわけにはいかない。死があるから、有限の時間を意識する。「永遠」は、きっと退屈である。見つめ合う二人が、時間が止まったように思っても、「疲れたまなざしの無窮の時」は流れ続けるのである。人間は、「永遠」や「無時間」には耐えられるようにできてはいない。だから、死と死後を思わないではいられない。
決定的なのは次の一行である。
彼のことばは幽界の微粒子
霊界理論によく出てくる、霊子体とか光子体とかいうことばを思い浮かべよう。どれも、素粒子とか微粒子とかのイメージである。「彼」が何を言っても、それは、死と死後を思わせる。死後に霊魂が行くかもしれない幽界を思わせる。彼が何を語っても、作者は、彼がすでに「死後」を背負っていると感じている。
橋の下に夕陽が滴り落ちる。「日も暮れよ、鐘も鳴れ」と同じである。日の暮れや夕陽は、人がまた一日、死に近づいたことの象徴であろう。
雨で灰色になったり、夕陽に照らされて深すぎるほど深い陰翳をつくったりしている「対岸の街」こそは、幽界ではないのか。幽界へ行くための橋は、「彼」と腕を組んでつくるのだろうか。それにしても、この「彼」は、一体、どのような存在なのか。様々な想像の余地を残したところが、この詩のもうひとつ魅力的なところである。
糸田ともよは、ヴェルレーヌやアポリネールの詩を念頭に置きながら『夕陽』をつくったわけではないのだろう。もっとも、ずっと以前に読んだものが潜在意識のなかには残っていて、その断片が、ヒョイ、ヒョイと顔を出すということはあるかもしれない。
そうだとしても、それらが顔を出すには出すなりの理由があるはずである。街に降る雨、橋、川、夕陽、というような風景から、糸田ともよは、恋の終わり、まなざし、時間、永遠、死、霊魂、幽界というようなことに一挙に想像を巡らせた。ヴェルレーヌやアポリネールがしたように、である。
フランスと日本は遠く離れていて、フランス語と日本語とは全く異なる言語ではあるけれど、人生の時間が有限であることを見つめ続けるすぐれた詩人は、同じような風景からは同じような想像を巡らせるということなのかもしれない。
片 上 雅 仁
二〇一六年六月二一日 記